今朝近くのコンビニエンスストアに行くと、レジ前の台に道明寺が置かれていた。
「もうそんな季節か」
カゴに入れた商品のスキャンする音を聞きながらそう感じた。
和菓子にはこうして季節を感じさせる力がある。
分かりやすいのは「おはぎ」であろう。
秋のお彼岸に備えるものとして、見た瞬間に季節を思い出させる。
春の「ぼたもち」と季節によって呼ばれ方が変わるのも季節感があって面白い。
道明寺は桜餅の一種で、あと一か月もすれば見ごろを迎える春を想起させる。
3月になったばかりの今日ではあるが、季節を先取りしているのかと心憎い陳列だ。
実は私が10代の頃まで、母が和菓子屋さんを営んでいた。
忙しい時は帰宅後店の手伝いをした事もあった。
店が閉まるのが楽しみだったのは、売れ残りを処分しなければならないからだ。
「捨てるのはもったいないから食べていいよ」
成長期の私にとってそれは――〇〇の言葉だった。
もちろん、当時の私にも好みがあった。
例え売れ残っても大して食べたくないもの。
あるいは既に何度となく食したため食べ飽きたもの。
この流れからすれば、おわかりであろう、食べたくて仕方ないものもあった。
「どうか売れ残ってくれ」
和菓子屋の息子として怪しからぬことこの上ない――
そんな願望を抱くいけない子供だったと今は自戒しているところである。
道明寺はまさに「食べたい」と思わせる好物の一つだったのだ。
もちもちとした触感。
口の中に広がる桜の葉の薫香。
こしあんの上品な甘さ。
血糖値の気になりだした私は購入をなんとか思い留まったが、
この先も陳列されるならばいつその決意が揺らぐか正直自信はない。
朝暗いうちから起き出してせっせとお団子を作っていた母を思い出した。
毎朝毎朝、寒いのに頑張ってくれてたんだな。
働き出してからその大変さを身をもって知るにつれ、感謝の気持ちも膨らんだ。
その母に10日ほどまえ面会に行った。
ついに私の名前も思い出せなくなっていた。
しばらく前から重症化した認知症のため入院していて、
少しずつこの世界の事が頭の中から抜け落ちている。
今はただ食欲と睡眠欲だけが残されているだけだ。
それでも長生きして欲しいと
不肖の息子の私ではあるが、願わずにはいられない。
以上「エッセイのせ!それでも長生きして欲しい」より引用しました。
ここからは本記事追加分です。
認知症は高齢の人に死の恐怖を和らげる生命の神秘のようなものと若い頃は捉えていました。
実体験を伴わないからこその、机上の空論に過ぎなかった今は思います。
認知症は壮絶です。
物忘れが悪化し、被害妄想で身近な家族や友人に対してさえ攻撃的になっていきます。
少し目を離すと、いつの間にか家を飛び出し行方不明になる。
”徘徊”という短い言葉では表せない実害をもまき散らします。
介護を担う者の行動を制限し、実際私は仕事に大きな支障をきたしたため、前の仕事を止めざるを得なくなりました。
今はなんとか落ち着いて、新たに就いた仕事をどうにか続けております。
ですがこの落ち着きは、認知症の重症化に伴う結果であり、心情的に複雑です。
特別養護老人ホームでさえ匙を投げざるを得ず、医療保護入院と言う形に納まったからです。
母は比較的若い年齢で発症したため、身体的には元気過ぎたのです。
体に力があり、ほんのちょっと目を離しただけで何をするかわからない。
生命を守るためには身体拘束を含む対処が求められる状態でした。
母の身体が衰え、活発に動く事ができなくなるまでは退院できないでしょう。
それまでは経済的な負担は大きいですが、どうにか支えていくつもりです。
子としてのせめてもの親孝行がこうした形になるのは複雑ですが、これが現実です。
何を思い、何に幸せを感じているのか。
それすらもわからない今の状態ですが、それでもふと見せる笑顔だったりとかが頭から離れません。
まだ頑張って生きてね、母さん。





















