
狭山丘陵の竪穴住居址
こんにちは。
この所春の嵐っていうんですか、物凄い強風が吹き荒れる事がしばしばありますね。
風がうなりをあげて吹きつけるのですから、
そんな時はできれば外出は避けたいところですね。
結局そんなこんなで今度の週末はすっきりしないお天気でした。
さて、冒頭の写真は狭山丘陵にある「竪穴住居址」です。
看板がなければ単に森の中にある空き地みたいな雰囲気ですが、
なんでもここに竪穴住居が2軒あったそうなのです。
一つは古墳時代後期、今から約1,400年前のものだそうです。
さらにもう一つに至っては弥生時代後期、なんと今から約1,700も前のものだそうです。
狭山丘陵の森の中で当時人が暮らしていたのかと思うと感慨深いものがありますね。
今でこそ水道はあるはガスはあるは便利な世の中です。
でも大昔は水道はおろか電気・ガスなんてあるはずありません。
毎日生きるためになすべき事は今の比ではありませんでした。
中でも最優先だったのが飲み水の確保。
移動は徒歩なのですから、身の回りに水があるところでなければ生きていけませんでした。
ですから当時の人々にとっては山や崖のように水が出る場所こそ一等地だったのです。
立川市の歴史を紐解いていくと、
柴崎村と砂川村という二つの村に行きつきます。
それら全く成り立ちの異なる村が合わさって今の立川市を形作りました。
柴崎村は立川崖線と言う崖周辺が太古の一等地として人を集めました。
縄文時代前後から人々が住み始め徐々に発展して村を形成したのです。
一方砂川村の辺りは水が乏しく集落が形成されることはなかったようです。
江戸時代に玉川上水ができて、やっと水が確保されるようになった事から、
他の場所から移り住んだ人々によって開拓され、その後村になったのです。
その際に移り住んだのがこの狭山丘陵付近の「岸村」の人でした。
狭山丘陵と言うこれまた太古の一等地で弥生時代から人が住み始め、
やがて集落を形成し早い段階で村をつくっていたのでしょう。
こう考えると現代人にとっての「住みたい街ランキング」は
太古の人々にとっては考えられないものでしょうね。
ちなみに、小平市の形成に関わる「小川村」も
岸村出身の人によって開拓されたのです。
小川村の辺りは平だったことから「小平」という名称がつけられたとされます。
狭山丘陵は立川・そして小平の歴史にも深いかかわりがあるのですね。
この所春の嵐っていうんですか、物凄い強風が吹き荒れる事がしばしばありますね。
風がうなりをあげて吹きつけるのですから、
そんな時はできれば外出は避けたいところですね。
結局そんなこんなで今度の週末はすっきりしないお天気でした。
さて、冒頭の写真は狭山丘陵にある「竪穴住居址」です。
看板がなければ単に森の中にある空き地みたいな雰囲気ですが、
なんでもここに竪穴住居が2軒あったそうなのです。
一つは古墳時代後期、今から約1,400年前のものだそうです。
さらにもう一つに至っては弥生時代後期、なんと今から約1,700も前のものだそうです。
狭山丘陵の森の中で当時人が暮らしていたのかと思うと感慨深いものがありますね。
今でこそ水道はあるはガスはあるは便利な世の中です。
でも大昔は水道はおろか電気・ガスなんてあるはずありません。
毎日生きるためになすべき事は今の比ではありませんでした。
中でも最優先だったのが飲み水の確保。
移動は徒歩なのですから、身の回りに水があるところでなければ生きていけませんでした。
ですから当時の人々にとっては山や崖のように水が出る場所こそ一等地だったのです。
立川市の歴史を紐解いていくと、
柴崎村と砂川村という二つの村に行きつきます。
それら全く成り立ちの異なる村が合わさって今の立川市を形作りました。
柴崎村は立川崖線と言う崖周辺が太古の一等地として人を集めました。
縄文時代前後から人々が住み始め徐々に発展して村を形成したのです。
一方砂川村の辺りは水が乏しく集落が形成されることはなかったようです。
江戸時代に玉川上水ができて、やっと水が確保されるようになった事から、
他の場所から移り住んだ人々によって開拓され、その後村になったのです。
その際に移り住んだのがこの狭山丘陵付近の「岸村」の人でした。
狭山丘陵と言うこれまた太古の一等地で弥生時代から人が住み始め、
やがて集落を形成し早い段階で村をつくっていたのでしょう。
こう考えると現代人にとっての「住みたい街ランキング」は
太古の人々にとっては考えられないものでしょうね。
ちなみに、小平市の形成に関わる「小川村」も
岸村出身の人によって開拓されたのです。
小川村の辺りは平だったことから「小平」という名称がつけられたとされます。
狭山丘陵は立川・そして小平の歴史にも深いかかわりがあるのですね。
異世界で奴隷から成りあがれ!